如意輪寺

如意輪寺全景"

如意輪寺の創建は901〜22(延喜年間)年と伝えられ、後醍醐天皇の勅願寺とされた寺、でもありまた、楠木正行(まさつら)が大阪四条畷(しじょうなわて)の戦いに出陣前、鏃(やじり)で記した辞世の歌が堂の扉に残っている(この扉は宝物殿に)寺としてあまりにも有名です。如意輪寺境内には正行一行の髪を埋めた鬢塚(もとどりづか)もあります。
また宝物殿に安置されている蔵王権現像(重文)は鎌倉時代中期、1226(嘉禄2)年の作といわれ、桧の寄木造り、極彩色の像で、役行者が山上ヶ岳で感得した蔵王権現の忿努(ふんど)の姿をみごとに表現しているとされています。
きょうは、ちょっと天気が良くないのですが勅願寺である如意輪寺を訪れました。このサイトでは、如意輪寺の周囲もすこしご紹介しています。ゆっくりご覧ください。

如意輪寺:

如意輪寺山門下階段

やっと山門が見える処まで上がってきました。

如意輪寺山門

山門の前に立ち境内を見ると正面に如意輪堂が現れます。なんと時代を感じさせるのでしょうか?

山門下階段

こんな階段を上がってきたんです。ふぅ

お堂

日本において天皇家が、分裂していた時代、1336年〜1392年の間(南北朝時代)、実に半世紀以上にわたり天皇家は分裂していました、宝町時代前期の1333(元弘3・正慶2)年の鎌倉幕府滅亡から1392(元中9・明徳3)年に南北両朝の講和(明徳の和談)が成立するまでの約60年間、朝廷が山城国(京都)の北朝と大和国(奈良)吉野の南朝に分裂し、全国各地で南北両朝勢力があらそった動乱の時代がその時期になります。ここ吉野山の如意輪寺裏山には、建武の中興後、足利氏におわれ吉野に南朝を作られた、後醍醐天皇の陵墓、塔尾〈とうのお〉陵があります。如意輪寺は正式には塔尾〈とうのお〉山如意輪寺というそうです。

後醍醐天皇は、復古的新政権(建武〈けんむ〉の新政=建武中興ともいう)を樹立し、幕府の擁立していた持明院統の北朝第1代光厳(こうごん)天皇を廃し、建武新政を開始した天皇であられましたが、武士達をうまく束ねることが出来ず、武士集団の棟梁(とうりょう)として足利尊氏が、天皇家を分断して幕府の傀儡(かいらい)である北朝を樹立、そのため醍醐天皇は吉野山に逃れられここ吉野山に吉野行宮を起こされました。都に対して丑の方向にあるこの如意輪寺を後醍醐天皇は勅願寺とされました。

役小角

振り返ると(如意輪堂を背に)左に修験道の祖・役ノ行者像がまつられています。

鐘楼

さらに役ノ行者像の左には、大きな鐘楼が、やはりお寺なのですね。


如意輪堂うら

如意輪堂のうら側です。この右上に御陵があります。


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