楠木親子
楠木正成は京都から戦場となるであろう湊川(みなとがわ)に向かったが、桜井(現在の大阪府三島郡島本町)まで来た時、嫡子正行(まさつら)に
「そなた(正行のこと)はもう11歳だ。私の言うことが理解できるであろう。よく聞きなさい。私は今度の戦いで命を落とすであろう。
そうなれば天下は将軍(足利尊氏)のものになるに違いない。
しかし武士は生き延びようとして、一旦決めた節義を変えてはならない。
そなたも父同様、生涯後醍醐天皇のために戦いなさい。」と諭し別れて行った。
負ける戦とわかっていながら天皇のために戦った正成と、父の教えを守り一族をまとめて戦い続けた正行の忠義の姿は、太平記をはじめ数々の書物に書き記されています。。
楠木正行
正平2年(1347)12月26日、いよいよ南朝討伐の兵を尊氏は挙げます。これを聞いた正行は27日、吉野の皇居に馳せ参じ後村上天皇に拝謁した。
このとき後村上帝は、「父と同じ道は歩んではならぬ、無理はせずに生きて帰るように」と正行に告げたが、もはや心の中では帝のために玉砕を覚悟していた。

如意輪堂に辞世の句を書く正行

現存する扉の写真がこれです。

拡大したらこのように見えました。確かに
「かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る
名をぞとゞむる 」と読めます。
「今度の戦いは生きて再びかえれぬ身であるが故に亡き人の仲間入りをする名前
を残して出発します」
この辞世の句を残し、過去帳に一族全ての名を記帳し四條畷に向かったが衆寡敵せず弟正時と共に最期をとげたそうです。

辞世の句を書いているようすを描いた屏風絵も残っています

正行公埋髷塚
正行公は、足利氏と戦いに行く前に先帝後醍醐天皇の陵に詣でて如意輪観音の前に髷を納めたとききます。正行時にまだ25歳の青年であったそうだ。
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